画期的なデジタルプロダクトをゼロから創ることの難しさ
2020.07.01
プロダクトを創るだけならば簡単。ただしスタートアップが問われるのは“価値ある新しいプロダクト”
今さら言うまでもなく、現代におけるスタートアップ企業の多くは、ソフトウエアやスマホアプリといったデジタルプロダクトの創造をベースにしている。そうしたプロダクトの開発販売自体を主要事業にするところもあれば、昨今急増しているSaaS(Software as a Service)型のサービスをコアビジネスとし、リカーリングモデルあるいはサブスクリプションモデルと呼ばれるスタイルで収益を上げようという企業もあるが、いずれにせよ事業展開の大前提としてオリジナルのデジタルプロダクトを持とうとするスタートアップが多数派となっている。
ではデジタルプロダクトを創るのは難しいのかといえば、決してそんなことはない。当社もまた自社開発のプロダクトを持っているが、世の中には便利な開発ツールやオープンな開発コミュニティが多数存在する。例えばDjangoやReactのフレームワーク、あるいは汎用機能を呼び出せるAPIといった機能開発を簡単にしてくれるツールもたくさんある。いわゆるWebサービス用のプロダクトの創作をする場合なら、すでに存在しているパーツや汎用化しているライブラリ、言語を用いながら既存のフレームワーク上で組み合わせるだけで出来上がってしまう。
しかし、スマートフォンはあくまでも端末機。どんなメディア、コンテンツ、サービスを利用するかはユーザーの選択に委ねられる。そこでにわかに脚光を浴びることになっているのが交通広告。おなじみの紙による車内吊り広告を筆頭に、交通機関の空間は昔から広告チャネルの1つとして存在していたが、ここへきて列車やタクシー車両の多くに動画放映可能なデジタルデバイスが普及したことで、一躍「貴重な動画広告チャネル」として注目を集めている。さらに、テレビへの広告出稿とは比較にならない低価格で動画CMの制作から配信までを請け負うベンチャー企業も乱立し、盛況ぶりが加速。スマートフォンと違い、乗客による選択の余地はなく、必ず目にしてもらえる特性もあるため、スマホにおける戦略と違ってシンプルに捉え、素早く着手できる。
ただし、まだ世の中に存在していない機能を実現するようなデジタルプロダクト、画期的な発想で市場に変革を起こし得るようなプロダクトを創る場合には話は大きく違ってくる。「ゼロからすべてを創るとなれば、難しいのは当然じゃないか」と思うだろうが、先に挙げたような先行事例のあるプロダクトや汎用的なパーツやサービスの組み合わせで開発できるものとの難易度の違いは途方もなく大きいのである。
そもそもデジタルプロダクトに限らず、モノ作りに不可欠なのは「それによって、どういう価値を生み出すか」という目的だが、すでに市場で認知されている価値を生み出すだけで良しとするのであれば、先に挙げたようにプロダクト開発に必要な部品はいくらでも転がっている。デジタルプロダクト開発で必須となる要件定義も、もはや突き詰める必要がない。なぜなら先行しているプロダクトが大まかな方向性の見本を示しているのだから。さらに例えば「UIにこういう工夫をして、ユーザーにこう見せていこう」、あるいは「この他社アプリにあるこの機能と、あの他社アプリにあるあの機能も盛り込んで多機能にしよう」、「あとはβ版をリリースしながら、利用者の声を採り入れてUX改善をアジャイルに進めていこう」などと、社内でプランを練るプロセスを進めていけば一定の充実感も覚えるはず。だが新規参入者であるスタートアップが、こうも容易くプロダクトを創り、その過程を楽しみ、そのうえ成功できるほど市場は甘くない。当然のことながら、そうして開発したプロダクトはすでにレッドオーシャン化した市場に参入することになる。スタートアップに勝ち目など残されていない。
設計の苦しみ+開発の苦しみ+テスト・評価・改善の苦しみ。越えなければならない難関の連続
「先行企業との差別化を確実にして、従来なかった価値を提供できるようなデジタルプロダクトを創る」という難易度の高いハードルを、スタートアップは超えていく他ない。そうなると最初に取り組むべきは要件定義。市場にはどんなニーズがあり、そのためにどのような価値が期待されていて、その価値を提供するために障害となっている技術的課題や価格的課題などがあり、その解決策として自分たちに何ができるのかを明確にしなければならない。ユーザーは誰なのか、どんなユーザー体験が求められるのか、そのために必要な機能は何なのか……等々も詰めていく。そのうえで、クラス図やシークエンス図を書き進めて、システムの骨格を決めていく。経験者ならばわかるだろうが、以上の設計工程だけでもタフな心身が問われる。すべてが概念の世界で進行していくからだ。しかし、これはほんの序の口。この後、本来の開発フェーズ、つまり本格的なコーディングが始まるのだ。
経験豊富なプロダクトマネージャーや、フルスタックエンジニアがいれば、フレームワークがなくても開発は進められるかもしれない。ただ、スタートアップがそのような人を探すことは難しい。そもそも、人材の要件を作れないし、どう評価して良いかも分からない。加えて、前例のない画期的プロダクトを生み出そうというのだから、そのマーケットはまだ世の中にはないし、ビジネスモデルの見極めができない中で、開発作業を限られた人員でやることになる。当然のことながらお金はかかる。「大学などに交渉して、共同研究の形にしながら理系の若手社員をアサインして、一歩一歩手探りで検討する」という道筋を実現するためには、優れたプレゼンテーション能力や相手を巻き込む交渉力も問われてくる。
それでも交渉が成立したと仮定しよう。コーディング自体は文法を必死で学べば進んでいくし、先進的な理論が必要な場合にも、大学の先生がガイドしてくれるかもしれない。しかし、次々に襲ってくるのが「開発あるある」のお馴染みの難関。テストをしてみると動かない。デバッグしてみるものの、どこが悪さをしているのかわからない。ようやくわかっても、直すと他の部分の動きがおかしくなる。スケジュールで設定した時間が迫る中で焦りが始まり、プレッシャーの中で修正を進めて行く。「根本的に何かが間違っているのではないか」という疑心暗鬼がプロジェクト中に蔓延し、「最初からすべてを作り直した方が良いのでは。要件定義がおかしいのでは」という空気で息も出来ないほどに追い詰められていく……。
こうして追い込まれた状況を迎えたスタートアップの中には、外部のエキスパートに頼り始めるようなところも出てくるだろう。金銭面をはじめ、こうした展開が許される状況ならばの話ではあるが、それなりのエキスパートを招くことができたなら、様々な問題点は確実に良くなっていくはずだ。しかし、だからといって「すべての問題点が解決して爆発的に良くなる」ケースなど稀だと思ったほうがいい。なかなか進まない開発に嫌気がさして、エンジニアのモチベーションも下がってくる。外部からも「それは難しい開発だよ」などと言われ始める。
コロナショックで起きる「世界同時リセット」。この好機を活かすのはスタートアップに他ならない
以上が「スタートアップが画期的デジタルプロダクトをゼロから自力で創り出そうとした場合の苦しみ」の、ほんの概要である。しつこいほどに難局の例を並べ立てたつもりだが、実際の現場では些末な行き違いだけで言い争いも生じるし、金銭的なストレスで体調を壊す者、ハードワークによってメンタルを壊す者、ある日とつぜん連絡がつかなくなる者などなども登場する。
近年はスタートアップがデジタルプロダクトで示した先見性や技術力によってチャンスをものにし、華々しく活躍している印象は強いし、事実そうしたプレイヤーはひところに比べ急増している。しかし、そのほとんどすべての成功事例においても、ここまで列挙してきたような苦しみはあったはず。この永遠ループのような難関と闇の数々を乗り越えられたところだけが成功を掴もうとしている。そう捉えるべきだろう。
では、どうすれば乗り越えられるのか? 答えは「思いの強さ」。やはりこれしかない。結局は、知識や経験の問題ではないのだ。「やりきる」という強い心を持つ。そんな月並みな話に落ち着くのかも知れない。だが、だからこそチャンスはあるのだと捉えることは可能だ。すべての価値あるデジタルプロダクトの創出が、知識や経験の有無によって決まってしまうのであれば、後発のスタートアップにチャンスなど存在しない。「思いの強さ」という、誰にでも持ち得る要素が問われているからこそ、成功するスタートアップが登場しているということ。コロナショックの影響もあり、ビジネスシーンやマーケットの常識は世界同時リセットの段階を迎えようとしている。世界中のプレイヤーが「よーいどん」で「画期的デジタルプロダクト創り」を開始する好機をものにしようというのであれば、今一度「思いの強さ」を自問するべきだろう。